分割した部分の後半です。
批評とは何か?と言われまして、その定義は人によって異なります。
ボク自身の定義は、読者が作家に対して伝達するコミュニケーションの手段、
分かりやすくいえば、プレゼントの様な物だと思っております。
これは、読者がこれはいい、ここは駄目だという部分を
作家に対して送る事で、作家が読者のそういう心情を取り、
書き直したり、新たな作品に取り入れることで読者に返していきます。
そうして、対話していく事で互いが互いに伸びていく。
それが、批評だと思っております。
いわば、読者と作家との会話です。
ところが、最近の批評について、
毒舌だの、辛口と言う言葉に変換し、
更に
真に受けるなと言う免罪符をかざして
文句を言っている方が見受けられます。
確かに批評として、
あえて厳しい事を踏まえて
作家の事を考えて言っている人もいます。
けれど、
そういう人はきちんと、駄目な所は駄目と言い、
いい所はいいとはっきり言います。
単純に、白黒がはっきりしているかぼやけているか。
それだけなのです。
所が、殆どの人は
単純に不満や愚痴を言っているだけで、
作家の事等、殆ど考えていません。
中には、平然と『死ね』と言い張る人もいます。
そういった文句にはコミュニケーションなどと言う物は存在しません。
只単に、自分の欲求を晴らす事だけで、
相手と対話する気など、一切ないのですから。
インターネットの世界では、特にその傾向が見られます。
自分の思考を他人に、簡単に、かつ自由に伝える事が出来るのは素晴らしいですが、
自由だからといって、何でも書いていいわけではありません。
インターネットというのは、様々な人が見ています。
無論、文句を言っている矛先の人……そう、
文句のはけ口となっている作家の方も、
見ていないとは限らないのです。
そんな中でインターネット=なんでも発言していいと言う
幼稚な理論と、
意見に同意してくれるかもしれないと言う、
当てのない人々の代弁者であり、代表者だと称する
妄想に塗れた正義から、その人を根拠なく批判していくでしょう。
無論、それは勝手ですし、それでその人がすっきりするなら構いません。
しかし、そんな下らない自己満足でしかない正義感を
世界中に突きつけて晒す行為は許されません。
インターネットは社会です。
仮想と言えど、そこには血の通った人々がいる社会です。
そんな社会の中で、自己満足の正義を振りかざす人間に、
一体誰が同意し、ついていこうとしますか。
物事には、全てにおいて責任が伴う事を覚えてください。
無論、貴方が平然と吐いた無機質な言葉もまた、
貴方の言葉であると言う責任を伴うのです。
作家は命令一つで動く機械ではありません。
貴方と同じ、赤い血の通った人間なんです。
心を伝える為に、
精神を病みながらも尚歩き続けなければならない、
悲しい、繊細な生き物です。
その作家がいやなら、根拠を挙げてきちんと作家に直接言って下さい。
作家とて人間です。
話をきちんとすれば、分かります。
そんな事もせずに
根も葉もない悪口を書いて悦に浸る。
そんな真似を、自分ひとりの世界ではなく、
開かれた社会であるインターネットにぶちまける行為は、
最早愚行です。
まして、真に受けるなと言う言葉を、
逃げの言葉をかざす事は絶対に許されません。
批評するのであれば、
自分の言葉に自身と責任を持ち、
作家の事をきちんと考え、
対話するように伝えてください。
誠意があれば、貴方の嫌いな作家は貴方の意見を受け取り、
新たな作品へと昇華して好きな作家へと成長していきます。
ですから、もう責任の取れない言葉を、
平然と作家に吐かないで欲しいと思います。
……追記。
こんな中二病まがいの、自己満足じみた事を書いた理由は、
ある出来事を知ったからです。
薄々気付いている人もいるかもしれませんが。
けれども、その出来事は不確定要素が多い為、
確定するまでお話しすることが出来ません。
本当に
申し訳ありません。
前項で書かせてもらいました、
大会でのコメントが的確だった事に他人の意見を素直に聞き、
成長する嬉しさを覚えた一方で、
その出来事で他人を殺す意見を無責任に出来る人もいるんだなと感じました。
そんな人にならないで欲しいと思い、
感情のままに書かせてもらいました。
最後まで見てくださった方々、長々とお付き合いしていただき、
ありがとうございました。
これ以上書きたい事があるのですが、
その所は感情を押さえ込み、明日以降、気の向いた時に書きたいと思っております。
テーマ : メモ。
ジャンル : 小説・文学