偽物の光。
本日最後の項目です。
と言いましても、Twitterで書いた事の纏めです。
久しぶりにこのカテゴリで書きますね。
該当するテーマがなかったので、ここで。
取り留めのない文章ですので、ご容赦を。
絶望に立たされた人間は、まず死にません。
これはボクが良く言っているのですが、
人はまず一人で死なないという考えと良く似ています。
人は環境を含めた、他人との軋轢
(周りが幸せそうだったり、出世していたり等……)
で自殺するのだと言う事です。
それは絶望ではありません。
失望と言います。
光があっても届かない。
その失望にさいなまれていくのです。
しかし、絶望にはそんな物はありません。
何故なら「望みがないから」です。
それは「死ぬ」望みもありません。
本当に何もないのです。
只妄想に囚われた世界を、
黙って、感情もなく歩くしかありません。
しかし、そこで光を見つけたとき、
人は圧倒的な渇望を持ってそこに進みます。
それは、砂漠の中でオアシスを見つけた様に。
人はそれを「悟り」といい、
光が「希望」であるならば、
「絶望」の苦しみを知りながらも、
希望に向かって進み続ける、強い人間になるでしょう。
しかし、それが偽物の光だったら……
死を照らす光だとしたら、間違いなくその人間は「死」へ向かいます。
自殺志願とは、
この死の光に見出されてしまっている状態なのです。
では止める為にはどうするのか?
答えは簡単です。
偽物の光を塞ぎ、
希望と言う光へ導いてやればいいのです。
しかし、それは余りにも難しく、
そして、他人関心のない今の状況では、
尚の事でしょう。
絶望から希望を教えるのは大変ですし、
人によって、何が希望なのか分かりません。
しかし、それで救えるのであれば、
それに越した事はありません。
自殺を止めて、
志願者を救いたいのであれば、
絶望の砂漠で、
死が照らす偽物の光を塞いであげてください。
そして、本当の光を教えてあげてください。
ボクも、絶望の淵をさ迷っています。
だから、ボクの心にもある、
死が照らす光を……誰か塞いで下さい。
本当の希望を、光をボクや多くの人々に……
と言いましても、Twitterで書いた事の纏めです。
久しぶりにこのカテゴリで書きますね。
該当するテーマがなかったので、ここで。
取り留めのない文章ですので、ご容赦を。
絶望に立たされた人間は、まず死にません。
これはボクが良く言っているのですが、
人はまず一人で死なないという考えと良く似ています。
人は環境を含めた、他人との軋轢
(周りが幸せそうだったり、出世していたり等……)
で自殺するのだと言う事です。
それは絶望ではありません。
失望と言います。
光があっても届かない。
その失望にさいなまれていくのです。
しかし、絶望にはそんな物はありません。
何故なら「望みがないから」です。
それは「死ぬ」望みもありません。
本当に何もないのです。
只妄想に囚われた世界を、
黙って、感情もなく歩くしかありません。
しかし、そこで光を見つけたとき、
人は圧倒的な渇望を持ってそこに進みます。
それは、砂漠の中でオアシスを見つけた様に。
人はそれを「悟り」といい、
光が「希望」であるならば、
「絶望」の苦しみを知りながらも、
希望に向かって進み続ける、強い人間になるでしょう。
しかし、それが偽物の光だったら……
死を照らす光だとしたら、間違いなくその人間は「死」へ向かいます。
自殺志願とは、
この死の光に見出されてしまっている状態なのです。
では止める為にはどうするのか?
答えは簡単です。
偽物の光を塞ぎ、
希望と言う光へ導いてやればいいのです。
しかし、それは余りにも難しく、
そして、他人関心のない今の状況では、
尚の事でしょう。
絶望から希望を教えるのは大変ですし、
人によって、何が希望なのか分かりません。
しかし、それで救えるのであれば、
それに越した事はありません。
自殺を止めて、
志願者を救いたいのであれば、
絶望の砂漠で、
死が照らす偽物の光を塞いであげてください。
そして、本当の光を教えてあげてください。
ボクも、絶望の淵をさ迷っています。
だから、ボクの心にもある、
死が照らす光を……誰か塞いで下さい。
本当の希望を、光をボクや多くの人々に……